「夢見ヶ崎」の由来になった伝説とは・・・

もともと、この地は

この夢見ヶ崎(長さ約750m、幅約150m、標高約35mをもつこの丘)は、もとより、「加瀬山」という名称で地元の住民から愛されてきました。

その加瀬山には鎌倉時代中期頃に、加瀬左近資親が城を築いたと言われており、その城は加瀬城と言われていました。現在では夢見ヶ崎動物公園といくつかの寺社で占められています。

※「加瀬」の由来ははっきりしていません。上記の加瀬氏が移り住んだ時に、もともと「大倉村」という名前だった地域を「加瀬」と名付けたという説や、平安時代に、皇室領である「賀勢庄」が開発され、鎌倉時代にはそこで「加世氏」が活躍したことに由来しているという説もあります。

太田道灌伝説

そして、室町時代の後期、江戸城を建てたことで有名な武将太田道灌(おおた どうかん)が、幕府の命により関東平定の為、多摩川と鶴見川に挟まれ、交通の便の良い等、この山にに城を築こうと考えました。そこで、試しに陣を敷いたところ、夜の夢の中で一羽の鷲が現れ兜を持ち去る夢をみたというのです。

公園内には記念碑も

武将にとって兜はとても大切な物。太田道灌はその夢を不吉だと思いこの土地に城を築くのを諦めてしいました。

その鷲は南方へ飛んでゆき、途中で兜を落としたそうです。そして、太田道灌はその落とした兜の地へ自ら赴き、その兜を埋めたという。今も横浜市駒岡(兜を埋めた土地)には兜塚の碑が残してあります。

その後、太田道灌が夢をみたことで、ここが夢見ヶ崎と名づけられたと伝わっています。

ちなみに

ちなみに、この加瀬山に築城を諦められなかった太田道灌は、再度この地を訪れ、今もこの土地を護る神社(天照皇大神)に祈ったそうです。すると、その夜今度は、タンチョウヅルが今の皇居(江戸城)の方で舞っている夢をみました。太田道灌は「そこにお城を建てなさい」という、神のお告げと思い、江戸城を建てたのだそうです。

もしも、最初の夢が縁起の良い夢であったなら、そしかしたら、川崎に江戸城が建てられ、首都になっていたかもしれませんね。

夢のある山、夢見ヶ崎

名物料理

その夢見ヶ崎の麓に、“食”を通して、この伝説を楽しみながら知ってもいたいと店主が考案した名物料理「夢見もんじゃ」がある、ぽんぽこ本°舗へぜひともお立ち寄りください。

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太田道灌が叶えられなかった幻の城